「未來のゴッドハンドたちへ」【守破離】」

生徒さんからの質問と回答をシェアリングします。
こと、全てにおいて「結果のみを簡単に求める風潮」が蔓延っている。

求道、物事を追及するに当たってよく言われる言葉。

①守
その流派、師匠の言うことをひたすらに守り表現し理解する時期
「なぜこの行程を踏んでいるのか?」
一見、意味のない「お祈り」や「食べ物の規制」そういったことまで思いや思考を馳せる
結果ではなく、そこに至った過程に氣付く時期、

②破
その流派、師匠の言うことをひたすらに破る時期、そうすることでその流派の目指していたものを痛烈に理解できる、なぜなら全部上手くいかないから。
その中で失敗し試行錯誤し、自分なりの形を模索することでより真理を理解できる

③離
事象の真理、その流派の真理に氣付くことで更に自分の環境を通した表現を得られる
自流派を立ち上げる時期

ぼくは守の段階では、師匠の家の草むしり、買い物、洗車までを楽しくした。そこで「こうした方がいいね、」なんて一言をもらう。
それは、武術の動きや考えと極めて似ているアドバイスである。

師匠の箸の上げ下ろし、着物の着る順番、掃除の仕方、咀嚼まで、すべてを真似る。

真似る、は學ぶの語源である。

ひたすらに口調すらも真似る。

それが身体を通し、動きを通し、武に表現される。

この「守」の段階、
武術で他流派のものを學ぶと、「あれ?変な臭いがするな。」と師匠に言われる。

多角的に理解することも大事なのだがこれは、【破】の段階で【守】の段階でやるべきではない。

【守】の段階で「わからない」と「迷う」「自考自調」が必要なのだ。
その大事な過程が無くなる。

「答えを与えられた」段階でその人の成長は止まる。自分で考えれない人間が出来上がってしまう。
延々とセミナーやスクールに通い「出来た氣になる」のだ。
セミナー難民になって何も表現できない。

現場で何もできない、
何も出来ていないことにすら氣付がない、
そんな人間が出来上がる。

自考自調
ZOEでは、この過程を何よりも大切にしている。

型稽古だけでは実践に足らず、実践のみでは理に辿り着けなかった経験がそうする。

リラクゼーション、セラピーで言えば「上手くいかなかったー」で済むかもしれないが、
武やエクストリームスポーツで言えばよくて骨折、悪くて死である。

結果を求め過ぎてはいけない、そこに至る「過程」を理解できなければ辿り着けない。
結果なんぞは過程の中から生まれるものだ。

そのために、何をするのか?

実践あるのみである。

最低百。

空手の世界では、
「千日を【鍛】とし、
万日を【練】とする」
という言葉がある、
三年同じことを繰り返して「鍛える」という、
十年弱で「練っている」という。

ひとつの動作に十年かけるのが昔は当たり前だった。

今はどうかは知らない。
才能もあるだろう。

向き合えないのであれば、技術職は名乗らない方が良い。

それは「向いていない」。

続けることで向き合えることに氣付くこともあるし、やはり向いていないと氣付くこともある。

接客業として向き合うのか、
技術職として向き合うのか?

どちらでも良い。
どちらも素晴らしいのだ。

しかしながら、
技術職とはそういうものだ。

特に機械に頼らず、
「感覚」「経験」が仕上がりを左右するのであれば「技術職」「表現者」ともに如何に向き合うのか、
そこにはまず、「守」があり、
流派、スタイル、師匠ごとにみる真理への過程が違い、
真理に辿り着けなければ、予定調和以外対応ができない。

そこには自由がない。

自由がないとは、
「自分が自分で在って由し」ではない、
つまり「あなたではない」というひとつの苦行。

まずは、流派、先生の世界観を理解するために無駄と思うこともすべて吸収する。

不明点があれば先生に訪く。

他の先生を頼れば、元の先生が自考自調させる一番大切な目的「真理への近道」を失ってしまう。

物事を追及することは、
自己の思考パターンを切り替えるということでもある。

もとからその思考パターンができていれば鼻から再現できるはずである。

學ぶとはそういうことである。

自己の習慣を変容させるには少しばかりの抵抗は必ずある。